トルーマンがフランクリン・デラノ・ルーズベルトの後を継ぎ、前例のない3期目でこの国を20世紀で最も厳しい時代に導いたとき、ヨーロッパでの第二次世界大戦はほぼ終結していた。 1ヵ月以内にドイツは降伏した。 しかし、太平洋戦争では、最後の枢軸国である日本が、アメリカ軍をこの地域から何としてでも追い出そうとする手強い、執拗な敵であることが明らかになった。 軍事計画家は、完全な勝利には連合国による日本への侵攻が必要であると予測していた。 この侵攻作戦は、少なくともあと1年は戦争を延長することになり、犠牲者や財産の面でも大きな犠牲を払うことになるだろう。 そのシナリオに落胆したトルーマンは、別の選択肢を模索した。
第二次世界大戦中の研究開発事業である極秘マンハッタン計画では、科学者が原子爆弾の完成を目指して熱心に作業していた。 1945年7月には、原爆の実験が成功したと見なされた。 この「核のオプション」を手にしたことで、戦争の早期終結が現実味を帯びてきた。 日本本土への本格的な侵攻という困難な見通しと、無条件降伏の条件を守ろうとしない頑強な日本の指導者たちによって、トルーマンは強引に敵国への原爆投下にゴーサインを出したのである。
1945年2月のヤルタ会談では、ドイツが敗北する少し前に、アメリカ、イギリス、ソ連がクリミア半島で会談し、基本的に戦後のヨーロッパをどう切り分けるかについて議論した。 このとき、アメリカ、イギリス、ソ連の3カ国がクリミア半島で会談し、戦後のヨーロッパをどのように分割していくかを話し合った。 しかし、ソ連の指導者スターリンは、その約束を実行に移すつもりはなく、ポーランドに共産主義者の拠点を築き、その後何年にもわたって東ヨーロッパ全域にソ連支配の傀儡政権を樹立することになる。 ドイツの将来、戦後のポーランドの境界線、戦時賠償のあり方など、米ソの視点は大きく隔たりがあった。 トルーマンとイギリスのチャーチル首相にとって、ソ連の長期的な目標は、チャーチルが言うところの「鉄のカーテン」のように、ヨーロッパをマルクス・レーニン主義の揺るぎないイデオロギーで覆い尽くすことであることが、痛いほど明らかになり始めたのである
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